自己紹介6。料理が好きだと再確認できた半年間。
名古屋での2ヶ月の生活を終え、東京へ戻ってきた。まだ新しいお店が出来るまでには時間がかかるらしく、また他の仕事を探す事に。
2倍の家賃がかかっていたこともあり、ノンビリしている余裕はなく、派遣のアルバイトに登録し直ぐに働き始め、この時初めて料理以外の仕事をし、ベルトコンベアーで流れてくるモデムの解体作業や、ひたすら箱を作る仕事などもした。
お金の為とはいえ、やりたい事ではない仕事をするのが想像以上に苦痛だった。この時自分には料理しかないなと改めて思い、そのタイミングで下村シェフから、知り合いのお店を紹介して頂き残りの半年間を過ごす事が出来た。
とはいえ、自分の時間がかなり有ったので、その間は専門学校の図書室へ行き、過去の専門料理を全て見返し、下村シェフの料理を全てコピーしてもらい自分なりに下村シェフの料理を勉強した。幸いな事にかなりの量のデータを手に入れる事が出来、その時改めて下村シェフの凄さを実感した。
下村シェフの料理はどんな料理で、何が特徴なのか。写真やレシピ、掲載されていた文章を見ながら少しずつ自分の中にイメージを蓄え、実際に調理場に入った時に直ぐ闘えるよう準備した。
何事にも準備をしておきたいタイプの僕は、事前に出来ることは可能な限り調べ、咀嚼し、自分の中に消化する。その上で実際に闘う時は瞬発力を重視する。考えなくても動けるように準備するのだ。野球の練習と同じように。
『Edition Koji Shimomura』がオープンした直後は僕はサービスをしていた。
調理場には3個上の先輩が居て、僕が調理場に入るスペースがなかったのだ。
ただチャンスは直ぐにやってくる。
事前に出来る限りの準備をしておけたことが、僕の闘う場所を調理場へと導いた。
自己紹介5。トラディショナル。
東京を離れ、名古屋で働く。
短期的な仕事だったので、東京の家は残したまま名古屋へ向かった。まだ20歳だった僕には2ヶ月だけとはいえ、家賃が倍かかる状況は絶望的に苦しかった。
しかも名古屋では7歳年上の先輩2人との共同生活。自分のプライベートなど1秒たりとも無かった。
『LA GRAND TABLE de KITAMURA』
日本人で初めてスイスの三つ星『ジラルデ』でスーシェフになった北村竜二シェフの開いた、グランメゾン。広々としたダイニングには80名近くの席があり、東京では考えられないような贅沢な空間が広がっていた。
厨房もとても広く、スタッフの数も多かった。
同世代の料理人も多く、慣れない名古屋の環境と、当時まだ苦手だった賄いに追われる日々。北村シェフの鋭い眼光から逃れるように仕事をしていたのを鮮明に覚えている。
それと同時に、トラディショナルなフランス料理のソースを経験出来たのは、後にも先にもこの店だけで、初めて舐めたソースビガラード(苦味の強いオレンジで作るソース)の衝撃的な旨さは、フランス料理の奥深さを僕に刻み込んだ。
毎朝80名分のパンを焼き、80本のオマールエビを掃除する。クリスマスにはその2倍の仕事をしました。1年目の僕には殆んど地獄の様な環境でしたが、同世代の他の料理人に負けたくない一心で働いた。
トラディショナルなフランス料理に触れる事が出来た貴重な機会も、初めて働いたお店を半年で辞めなければ得られないものでした。
知識としてではなく、経験として触れる事でより記憶に残り、舌に残りました。
今の時代に想うことは、得られる情報が途轍もなく増えた事で、知識ばかりが増え実際に体験し、それを技術として身に付けるということが減っている様に感じます。
写真を見ただけで食べたかの様に感じてしまう。本を見ただけで出来るようになった気になる。
料理人とは、やはり技術職で、知識もとても大切ですが、1番は技術だと思います。
どんなにテクノロジーが進化しようとも、料理人の強さとは、包丁とフライパンだけでどれだけの美味い料理が作れるのか。
その強さの上にテクノロジーを駆使し、初めて本物の料理人と言えるのではないか。
自分がまだ24、5の頃は自分で肉や魚を買い、ひたすら捌き、焼き、食べていました。
出来ない事は沢山あれど、やった事のない事をいかに無くすか。
0からスタートするのと、1を知っているのは雲泥の差です。
机上の学びも大切ですが、先ずはやってみる事。特にこれからの若い人達には先ず色々なものに自分で触れる事を大切にしてもらいたい。
自己紹介4。初めて触れた本物の世界。
専門の卒業式を途中で抜けて乃木坂へ向かう。
働き始めて1週間。慣れない事ばかりだが、不思議と心踊る毎日を過ごしていた。
初めて食事をした日、直ぐに働かせてくれと直談判した。専門学校との繋がりはなく、自分でレストランとやりとりをし、研修へ2回、面接を1回受け就職することが出来た。
後から聞いた話だが、採用を決めたのは大きな声での挨拶だったらしい。ここでも野球部で培われたものが自分を助けた。
新卒は全員サービスから仕事を始める。料理がどのような空間でどんな方達が食べているかを知った上で料理を作る事がとても大切だからだ。新卒は僕を含めて3人いたが、運良く僕が一番初めに調理場へ入れた。
誰よりも早くお店に入り、自分の仕事を終わらせ先輩の仕事をもらう。だけには留まらず、先輩に文句まで言っていたのは、若気の至であり、当時から誰にも負けたくない一心で我武者羅に働いていた心の表れだと思いたい。
数ヶ月が過ぎ、仕事にも慣れて来た頃に転機は突然訪れた。下村シェフが独立の為にレストランFEUを辞めるという。衝撃が走った。この人の料理を学びたくて入ったのに、シェフが辞めてしまう。新卒3人を呼び出しシェフが話してくれた事は、『きっと君達は僕の料理が学びたくてこの店に入ったと思う。もし付いて来る気があるのなら、新しいお店でも一緒に働こう。』一瞬で心が決まった。僕はこの人に付いて行こうと。
そこから新しいお店がオープンするまでは、1年という期間があった。
そして初めてのクリスマスの仕事を名古屋で過ごすとは全くもって思いもせず、『Edition Koji Shimomura』がオープンするまでの期間は初めて関東を離れ仕事をするとても貴重な機会となった。
名古屋は今でも僕にとってとても思い入れのある街です。後に2度名古屋でイベントをやる事になりました。何か御縁があるのでしょう。
また名古屋でイベントを出来るように精進します。
自己紹介3 。フランス料理の世界へ。
料理の専門学校へ行くと決めてから、少しだけ野球への未練と後悔がうまれた。長く続けてきた野球を辞めることは、自分にとって思いの外大きな事件だったようだ。
ただ料理をやると決めたからには、野球では目指せなかったトップの世界にいくと自分に誓い、2年間の専門学校生活をを無遅刻無欠席無早退で過ごすと、美容師の専門学校へ行った親友と語ったのを今でも鮮明に覚えている。
専門学校に入った当初、僕は料理人ではなくパティシエになりたいと少し思っていた。この世界に入ろうと思ったキッカケがケーキだった事もあるが、自分の性格が理系で論理的なものが好きだったのでパティシエのケーキの様に緻密で繊細に計算された味わいやフォルムに憧れが強かった。
しかし同時に甘い物だけではいつか飽きてしまうのでは?という不安もあり、最終的にはフランス料理を学びながらお菓子も学ぶ、という形で落ち着いた。結果フランス料理を選んだ事で海外を意識する機会が増え、自分の視野が大きく広がった。
専門学校時代はとにかくお菓子を食べ歩き、合羽橋で大理石の作業台を買い、チョコレートのテンパリングや生地作りなどに勤しみながら、『絶対に誰にも負けない!』気持ちで毎日を過ごしていた。
就職の時期が近づき、職場を探し始める時に思った事は、必ず自分の脚で食べに行き自分の目と舌で感じる。学校の求人に貼られている紙切れに自分の人生を任せるのは気が引けていた。
とはいえ業界の事など専門学生には殆ど分からず、たまたま見ていた本に載っていた一軒を選び食事に行った。
この『たまたま見つけた一軒』が僕の人生を大きく動かし、決定付けたレストランだ。
レストランFEU。
当時このお店でシェフをしていた『下村浩司』シェフとの出会いで僕は今シェフとして第一線になんとかしがみついている(と思いたい)。
自己紹介2。料理人人生のスタート。
高校時代野球に打ち込み、自身の身体を改革し確かな手応えを感じる事が出来、大学でも野球をやりたいと思い最後の夏休みに3つのセレクションを受けた。自分の中では出せるものは全て出し切り、1つの大学へは確実に受かる自信があった。
しかし、結果は惨敗。全ての大学に落ちた。
この瞬間に僕の中で野球人生は終わった。
受験をして続ける選択肢は勿論あったのだが、自信のあったセレクションで残れなかった時点でもう芽はないなと、自分の中の野球の灯火が消えた。
父は続けて欲しかったらしいが、自分の中で大学で野球を続ける明確な意志を持てなかった。
今思えばこのタイミングで野球を諦めて良かったと思う。ズルズルと野球を続けていたら、人生は全く違うものになっていただろうし、何事もそうだが、辞めるのもセンスで、その見極めを出来るかどうかは人生でとても大切だと思う。
無気力な夏休みを過ごし二学期が始まる頃、親友の誕生日が近いことを思い出した。
部活しかしていなかった自分には何かを買うお金もなく、どうしようかと思ったが、何故かケーキを焼こうと思った。185センチで眼つきが悪く坊主の男がだ。
しかしそれは小さい頃母と作ったケーキの記憶があったからだろう。野球を始めてからは全く料理などしていなかったが、何故かとても作りたくなった。そこからは直ぐに試作をし、他の友達に毒味をしてもらいながらクオリティーを上げ、いざ誕生日に友達にケーキを渡すと、本人はもとより、周りの友達まで驚く程喜んでくれた。
その瞬間自分の仕事はこれだと決めた。
人間何がきっかけになるか分からないものだ。
それから直ぐに料理の専門学校を調べ、自分に合うかどうかを吟味し、大学で4年かかる学費と専門学校で2年かかる学費を比較し、そのデータをもとに親にプレゼンをした。願書を既に提出した後に。
これだと決めたら直ぐ行動し、突き進むタイプなので、親も呆れて直ぐに認めてくれた。
バイトも料理関係で始め、自分の料理人人生がスタートした。
大きな決意を胸に新宿調理師専門学校へ。
自己紹介。料理人になる前の田村浩二。
神奈川県三浦市。海からほど近く静かな町で僕は育ちました。小さな頃は地元の海や漁港、祖父の畑などで沢山の食材と触れる機会が自然とありました。
その当時は苦手なものも多く、その環境が自分にとって特別な事だとは大人になってから分かるのですが。
父が野球選手を目指していたこともあり、僕も自然と野球を始めました。小中高と野球に明け暮れる日々です。
中学生の頃は成長期真っ只中で、3年間で30センチも身長が伸びました。横に増える余裕もなく、非弱で気弱な少年だったなと。
それでも我武者羅に野球に打ち込み、高校生になってからは身体作りの大切さを学び、独学で栄養学やトレーニング方法などを模索しながら筋肉だけで体重を20キロ増やし、心も身体も大きく強くなりました。
県立の高校ながら、監督さんの努力のおかげで県外のトップクラスの高校との試合も数多くあり、その度に自分に足りないものは何なのか、どうすれば自分達でも戦えるようになるのか。
日々頭と体を同時に使いながら自分なりの答えを探す訓練をしていました。
高校3年間の野球人生が、今の僕の考え方や行動のベースを作ったと断言出来ます。
1つのことに如何に打ち込み、集中し、成果を出すか。
初めは色んな人の真似から始まります。
その中から自分に合うものを選び、更に自分なりに改良していく。自分の体型や骨格に合わせ鍛える能力を選びながら、自分に合った成果を出せる力をつける。
自分の『やりたい事』と『出来る事』は違う場合の方が多いと思います。
若い頃はどうしても『やりたい事』ばかりを選んでしまいがちです。僕もそうでした。
しかし数多くの選手の中から自分の存在をアピールする為には、自分の事を客観視して他の人よりも何が得意で『出来る事』はなんなのかを考える必要があります。
仕事でも同じ事が言えると思います。
自分にしか出来ない価値のある事はなんなのか。
そして『出来る事』と『やりたい事』をどの様にリンクさせていくのかもとても大切です。
『やりたい事』(目標)の為に『出来る事』(能力)をどの様に鍛え伸ばすのか。
野球に打ち込み、多くの選手に揉まれながら自分を鍛えた経験が、今の僕を支える大きな力になっています。
貴方にとっての『やりたい事』と『出来る事』を考えるキッカケになれば幸いです。
シェフという立場になって。
10年東京で働き、フランスへ1年間の修行。
気が付けば12年目でシェフという立場に立てました。まだシェフになったばかりですが、世の中の人からすればなったばかりでも、5年目でもシェフはシェフ。同じステージで多くのシェフと比べられる立場になりました。
12年前に憧れていたシェフという役職。
今自分がその役職になり、当時思い描いていた自分になれているのか。
僕はスタッフに『シェフ』と呼ばせません。
呼ばれないだけかもしれませんが(笑)
まだ、自分の描いていた『シェフ』では無いですし、何よりまだまだ僕自身学びの途中なので、『シェフ』と呼ばれることに対して少し違和感があります。
勿論立場上そんな事は言ってはいけないのかもしれませんが、その呼び方にスタッフとの壁があるようにも感じてしまいます。
僕が働き始めた12年前と今の『シェフ』の立場や環境はかなり変化しました。
良くも悪くも昔はシェフが絶対。黒なものもシェフが白と言えば白。理不尽な事ばかりありました。
ただ、その環境が今の僕の精神的な強さを作り、忍耐力を育て、反骨精神に火をつけた事は間違いありません。
しかし今は違います。
時代が流れ、テクノロジーは進化し、料理はもとより生活環境や人の考え方も変わりました。
その中で僕らの働くレストラン業界は少し変化の流れに取り残されてるようにも感じます。
テクノロジーの進化と共に、今まで出来なかった事が出来るようになり、仕事にかかる時間は確実に減っています。より効率的に、より多くの事が学べる環境を作れる中で、今までと同じ様に仕事をしていくのはとても違和感を感じます。
守るべき伝統は、時として壊すべき物かもしれません。価値観は人それぞれですが、僕は新しい何かにチャレンジしたい。
シェフという立場になったからこそ考え、行動できるのかもしれません。
先輩方が作り守ってきた伝統を重んじながらも、それを壊し自分の道を切り開いていきたい。
その為に先ずはシェフとしての自分を磨き上げていきます。
本当の意味で『シェフ』と呼んでもらえる様に。