L'odoriter 料理人の新しいプロダクト。田村浩二の挑戦。

シェフとして、人として。今感じていることを少しずつ綴っていければと思っています。

食べれる香水『土佐ベルガモット』

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フランスから帰国し、一年以上が経った。

 

時の流れはとても早く、目まぐるしく過ぎる日々の中で一日一日をどう生きるのか。

 

フランスへ行き、日本の事を何も知らなかったと気付いた僕は、地方の生産者の元を訪ね、様々な食材や日本の文化である発酵調味料や日本酒など、あらゆるものに触れる機会を作ってきた。

 

そのきっかけとなった食材がある。ベルガモットだ。

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高知県土佐市。温州ミカンやユズ、文旦など様々な柑橘類が特産品となっているこの場所でベルガモットは作られている。

 

南フランスで働いていたころ、本当に多くの柑橘類に触れることができ、元々好きなこともあったが、日本では感じたことがない香りの華やぎに更に引き込まれていた。

 

その中でも特別な存在だったベルガモットを帰国してすぐに探し、たどり着いたのが『土佐ベルガモット』だ。

 

直ぐに連絡し、ベルガモットの実が生る頃に伺う約束をした。

 

そもそも何故土佐でベルガモットを作っているのか。

 

地球温暖化の影響で、平均気温が1.5℃上がると温州ミカンが取れなくなると言われている。そこで高知の未来を見据えて始まったのが、より温暖な気候でも収穫可能なベルガモットの生産を目指す『土佐ベルガモットプロジェクト』だ。

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実際に現地に行き実物を見た時、何とも言えぬ高揚感を抱いた。ハウスに広がる芳醇な香り、鈴なりになる実の付き方。初めて見たその姿は今でも鮮明に蘇る。

 

しかし、実が生るまでの道のりには五年の歳月がかかっている。ハウス内の温度調整や、鈴なりに生る実に木が耐えれるようになるまでの摘果。様々な苦労と苦悩の末に『土佐ベルガモット』は出来ていた。

 

料理でも食材でもそうだが、本当に良いものは時間と手間がかかる。そしてその分だけ心がこもっていると僕は思う。どんなに世の中が便利になろうとも、『アナログ』でしか作り出せない価値があると。

 

 TIRPSEで定番のスターターとしてお出しする『ベルガモット

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『香り』を自身のアイデンティティに掲げる僕の欠かすことの出来ない、大切なパートナー。

 

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http://www.harunoterrace.co.jp/user_data/tosa_bergamot.php

 

自己紹介16。ターニングポイント。

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作業を始めて七時間、気が遠くなるほどの仕込みも終わりが見えてくる。

 

朝から一つの仕込みだけでこれだけの時間をかけたのは初めてだった。

 

仕事は速い自信があった。ただ圧倒的に『量』が多いのだ。

 

骨董通り(現南青山)にあるレストランL'AS。

オーナーシェフは兼子大輔さん。

三田コートドールやパリのアランサンドランスで修行をされ、麻布十番のカラペティバトゥバでシェフをした後L'ASをオープンさせました。

 f:id:koji-tamura0929:20170831235753j:image(写真は2012年時のもの)

オープンしてまだ二か月だが、瞬く間に予約の取れないレストランになっていた

 

 

このお店には色々な所に話題性があり、5000円という驚きの価格でのお任せコース、二週間で変わるメニュー内容(2012年時)、引き出しから取り出すカトラリー、料理に合わせたワインペアリング。

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そして何より、意外性がありながらも美味しく楽しい料理が人々の心を惹きつけていた。

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キッチンスタッフは兼子シェフを入れて4人、サービスは2人。この人数で1日2回転、約40名のゲストと闘う。

 

仕込みがとても多く、朝から晩まで息つく暇なく働いた。初めてレストランで働いた時のような過酷さは2度と経験しないと思っていたが、考えが甘かった。この店は何かが違う。ただの人気店繁盛店ではない。目に見えない力を宿している。そんなことを感じる日々だった。

 

全ての料理を出し、ゲストを見送り、片づけが終わるのが日をまたぐ頃。そこからは次の日の仕込みを始め、終わるのが夜中になる事もしばしばあったが、僕は不思議と楽しく感じた。日々の仕事の充実による生きている実感。自分の存在意義が明確にL'ASにはあった。そして一番大きかったのは、ある程度の仕事は誰にも負けないと思っていた矢先、兼子シェフの仕事のスピードとクオリティーを目の当たりにしたこと。

 

「こんなに仕事が早く、きれいな人がいるのか」と心を折られた。

 

そして、明らかにレベルの違うその仕事力に少しでも近づこうと、更に自分を磨く。人として、料理人として尊敬できる人と毎日働けることに充実感を得ていたことで僕はやりがいと生きがいを見出していた。

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今の時代、長く働く事が良いとは言えないが、長く働かないと見えない世界がある事も事実だ。人と同じ時間しか働かないのでは、人の先には行けない。

 

そして、人生には脇目も振らず1つのことに全ての時間を注ぐ瞬間があっても良いと僕は思う。

 

ある種の狂気の中でしか生まれない何かがある事を僕は知っている。

 

 

 

 

食は時間を作る

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鹿児島県出水群長島町。

 

東京から飛行機と車を乗り継ぎ約四時間。10月に開催される『O-GILI』の為に、僕ははるばるやってきた。

 

一日しかない過密スケジュールの中、『O-GILI』の太田良冠くんがどうしても会わせたい人がいると紹介してくれたのが石元淳平さんだった。

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自然に溢れ穏やかな時間が流れるここ長島町で優しさに満ちた独自の味噌『COCOROMISO』を奥さんと四人の子供と作っている。

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淳平さんは長島町出身で、中学卒業後、飛行機のパイロットを夢見て長島町を離れるが、その夢は破れてしまい、工業高校卒業後はパイオニア液晶テレビプラズマテレビを作る技術者として働いていた。地元を離れ仕事をしていた時は、辛いことや悲しいことも多かったが、その度に故郷の味に救われたという。

 

静岡で三年を過ごし、二人目の子供が生まれたことをきっかけに淳平さんは長島町へ戻ることを決意した。

 

そして知人の紹介で地元の醸造会社に勤めることに。当時は帰ってきたばかりという事もあり仕事がなく、本望ではなかったが仕方なく働くことにしたのだとか。当時は正直全く興味はなかったそうです。

 

しかし、七年間という歳月は淳平さんの意識を変え、いつしか自分の味噌を作りたいと思うまでに味噌作りに没頭していた。

 

そして、『世の中に必要とされる、自分にしか作れない味噌を作りたい』と独立を決意。お世話になった会社を辞め、自身の会社『石元淳平醸造』を立ち上げたのだ。

 

自分のフルネームを会社名にした理由は「責任を持つこと」「自信を持つこと」そして、何よりも「自分自身を信じるために。」と淳平さんは語る。

 

美味しく身体に優しいのは勿論の事、この味噌を食べて育った子供たちが、将来都会に出て孤独や辛さと闘い疲れた時に、食べた瞬間、故郷の家族や景色、音色や色彩まで思い出せるような『時間』を作って欲しいという淳平さんの想いが『COCOROMISO』にはかけられている。

 

忙しい中で食事をすることも後回しにしてしまいがちな今の世の中で、ただお腹を満たすだけの食事ではなく『時間』を楽しみ大切にするものになって欲しい。そしてその『時間』が明日への活力になると淳平さんは信じている。

 

 しかし想いだけでは本当に良いものは作れない。ここからは試行錯誤の日々だったそうだ。美味しい味噌はいくらでもあるが、身体にも『心』にも優しい味噌はなかなかない。目指すべきはそこだと。

 

元々パイオニアの技術者だったこともあり、物事を論理的に考え、緻密に計算することが得意だった淳平さんは味噌作りにもそれを応用する。何度も実験し、データを集めては計算し改善する。科学的なアプローチをしつつも、実際に味噌を作るのは麹菌だという事から、麹菌の住みやすい環境作りを一番に考えながら作っていったそう。材料もほとんどを九州産で揃えている。

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そして独自の味噌を作るために、他の味噌屋の作り方は調べず、全てを手作業で、自分の味覚と感性を信じて突き進んだ。

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味噌の原料である麦の水分量は通常1.3~1.4%。しかし『COCOROMISO』は1.1%だそう。なぜなら麹菌が住みやすく、味噌になった時に麹の香りが活きる割合だと淳平さんは言う。しかし水分量が少ないという事は、それだけ出来上がる分量は少なく、原価もかかってしまうが、それでも優しい味わいの為には1.1%でないとダメなのだ。

 

塩分量もそう。塩分が味わいの邪魔にならぬよう、一般的な割合の12%ではなく9.5%。保存の意味合いもある塩を減らすことで保存期間は短くなってしまうがそれでも9.5%にこだわる。

 

人の都合ではなく、麹の、味噌の都合で作る。

 

「サイエンスとナチュラルの共存が発酵食品の面白さだ」と淳平さんは笑顔で語る。

 

淳平さんの子供たちはみな名前に『心』が付きます。

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子供たちの為に、多くの方の為に。

 

『COCOROMISO』の優しさで多くの人が食事の『時間』を大切に、楽しめるように。

 

人の健康を支える食の大切さを『COCOROMISO』との素敵な出逢いで改めて再確認をした。

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石元淳平醸造 

http://cocoromiso.com/about/

https://www.facebook.com/cocoromiso/

自己紹介15。ケジメと再出発。

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イタリア料理からフランス料理の世界へ戻る。

 

その為に1つ必ずしなければならない事があった。

 

自分の未熟さ故に、飛び出すように辞めてしまった『Edition Koji  Shimomura』の下村シェフへの謝罪だ。

 

お店を辞めてから2年半がたっていた。

 

当時分からなかった事やシェフの想いが少しだけ分かるようになった気がするのは、自分の経験値が少し増えたからだろう。

 

自分のとった行動がどれだけの人に迷惑をかけたのか。それによって下村シェフはどの様な気持ちになったのか。考えれば考えるほど申し訳のない気持ちでいっぱいになった。

 

しかし1人で謝りに行くほどの勇気は無く、キッカケが無ければ未だに顔を合わせる事は出来なかったと思う。

 

現在スブリムでオーナーをしている山田さんから連絡を貰わなければ。

 

『下村シェフの所に食事に行くんだけどお前も行かない?』

 

何故僕を誘うのか正直理解が出来なかった。当時一緒に働いていた山田さんなら僕の状況が分かっていたはずなのに。

 

『正直下村シェフに顔向け出来ません。僕は行けません。』

 

しかし山田さんは、『もう3年近くも前の事だろ?良い頃合いだよ。フランス料理の世界に戻るなら、ケジメはつけないといけない。それに下村シェフだってもう気にしてないだろ。』

 

気にしてないわけないだろと心の中で想いながらも、キッカケが無ければ絶対に行けなかったので、正直救われた気持ちだった。

 

研修にも行かせて頂いた菅又シェフ(現在リョウラオーナー)のお菓子を用意し、お店へ向かう。

 

様々な気持ちが渦巻く。

 

営業前に挨拶をとお願いしたが、忙しいからという理由で断られ、なんとも言えない気持ちで食事をした事は一生忘れないだろう。

 

そしてデザートまで食べた時、下村シェフはテーブルへといらして下さった。

 

いの一番に、『下村シェフ、当時は本当にすみませんでした。』と伝えると、思いもしない言葉が返って来た。

 

『ん?何かあったか?昔の事は忘れたよ。今も料理を続けてるんだろ?頑張ってるらしいじゃないか』

 

その言葉に思わず泣きそうになった。

 

自分が同じ状況になった時、その言葉が言えるだろうか?20歳近く年の離れた若造に啖呵を切られたというのに。

 

『またフランス料理の世界へ戻ります。L'ASというお店です。』

 

その事を伝えるだけで精一杯だった。

 

そしてお土産を渡した後は何を話したのか覚えていない。

 

ただ1つ言える事は、今まで胸に引っかかっていた『何か』は消えて無くなっていた。

 

『Edition Koji Shimomura』出身だと胸を張って言える様更に努力しようと心に決め、新たなスタートを切る。

 

フランスへ行く前の最後のお店。

 

『レストランL'AS』

 

新しい挑戦をするお店での再出発。

 

 

文章を書くという事。

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このブログを書き始めてから、多くの人に文章について聞かれます。

 

僕自身特に意識はせず、思うがままに書いているだけなのですが。

 

小さい頃から作文や読書感想文は嫌いではありませんでした。ただ国語は嫌いで、人によって答えが変わる曖昧さがどうしても受け入れられない学生時代でした。

 

今なら何となく分かります。それでも数学のように方程式があり、答えが1つのシンプルなものが好きでした。

 

そもそも何故ブログを始めたのか。

 

今までは自分の事を赤裸々に伝える事が嫌いでしたし、価値を見出せませんでした。

 

ただフランスから帰国し、シェフとして働く事になると少しでも世の中にアピールをしないといけません。

 

新しいお店なら、それだけで取り上げてもらえるかもしれない。

 

しかしシェフが変わっただけの場合、なかなか取り上げていただきにくく、変わった事さえ伝わりにくい。

 

そんな中まず始めたのはFacebookでした。

 

それまでといえば、他の人のポストを見るだけで、自分では特にあげていませんでした。しかし少しでも何かが変わるのならと始めてみると、少しづつですが変化は起きました。

 

インスタグラムも同様です。

 

続けていく中で、色んな方からアドバイスを頂き、少しずつ変えながら文章を書いていると、ある人からこんな事を言われました。

 

『素敵な文章だけど、Facebookではフィードが流れてしまう。インスタグラムも文字制限がある。ならば、いっその事ブログを書いてみたら?ブログなら流れてしまう事もないし、検索もしやすい。何より自分の事を明確に発信できるよ!』と。

 

自分の文章に対して自信などなく、探りながら書いていたFacebookを見た人からこんな事を言われるとは思いもせず。

 

ただ、文章には人柄が出る。ならばブログとしてキチンと書いていけば、自分の人となりを伝える事が出来る。経歴なども分かりやすく、どこでどんな風に生きてきたかを自分の言葉を使わなくても伝える事が出来る。

 

レストランにいると、食事に来て下さり、尚且つ何かを感じてくれた人でないと、長くお話しする機会は得られない。

 

でもブログがあれば、ほんの少しでも興味を持ってもらえれば見るきっかけになるし、いつでも見る事が出来る。いつでも自分の事を宣伝しているようなものだ。

 

自分がレストランから離れられないのなら、離れることの出来る何かを作るだけ。

 

幸いにも自分が思っているよりも多くの方がブログを見てくれているそうです。

 

日々少しでも『今』感じる事を伝えていければと思います。

 

 

 

 

 

 

自己紹介14。再びフランス料理の世界へ。

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麻布十番にカラペティバトゥバというフレンチがある。

家から近かった事と、料理が抜群に美味しかった事から、足繁く通っていた。

 

当時このお店で働きたいと思っていた事もあり、特別な思い入れのあるお店だ。

 

ある日当時のシェフ兼子大輔さんが独立したと話を聞き、直ぐにお店に足を運んだ。

 

表参道骨董通り『L'AS』

 

今では珍しく無いが、当時衝撃的だった5000円のお任せコース。テーブルには引き出しがあり、カトラリーがセットされている。そしてコースに合わせてワインのペアリング。

 

あらゆる無駄を排除する事によって実現する5000円というバリュー。

 

肩肘張らない空間で、純粋に料理を楽しめる。

 

そして料理は本格派のフランス料理。

 

行ったその日にこの店は確実に流行ると確信した。

 

一人で食事に行ったので、帰り際には兼子シェフともお話しする事が出来た。

 

やはりフランス料理の世界に戻りたい。

 

2年半イタリア料理と共に時間を過ごし、改めてフランス料理を、フランスへ行きたいという想いが強くなった。

 

しかし、3年間は同じ店で働きたいという想いもあり、今後をどうするか悩んでいた。

 

そんな矢先一本の電話が掛かってくる。

 

L'ASの兼子シェフからだ。

 

食事に行った時の予約の電話番号に連絡を下さり、お話を聞く機会を頂くことに。

 

それは食事から2ヶ月後の事だった。

 

現状や、今後フランスへ行きたい事、将来なりたいビジョンや料理感など、短い時間の中で色々と話を聞いて頂いた事をよく覚えている。

 

しかし今の自分の立場では直ぐにお店を辞める方は出来ない。行きたい気持ちを抑えながら、兼子シェフにはそう伝えた。

 

自分で伝えたとは言え、晴れない気持ちはごまかせなかった。

 

その一週間後にもう一度電話が。

 

2度も連絡を頂けた事、フランス料理へ戻りたかった事、フランスへ行きたい事。

 

色んな想いが頭の中を交錯し、素直にL'ASで働きたいと思い、その事を後藤シェフに伝えた。

 

『ちょうどイタリアから帰ってくる料理人がいたけれど、田村くんがいるからと断ろうと思っていた。でも田村くんが新しいお店へ行きたいなら応援するし、人の事も心配はない。』

 

本当に多くの事を学ばせて頂き、次のお店の事まで考えて下さった。後藤シェフからは料理以上に大切な物を教えて頂きました。

 

2年半お世話になったお店を離れ、再びフランス料理の道へ。

 

しかし、その前にやらなければならない事が1つだけ残っていた。

 

 

 

『L'AS』で働いた事で、僕の料理人としての考え方は180度変わった。人との、お店との出会いで、僕の人生は更に変化を増していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スペインの風。

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8/16、17日に行われたコラボイベント『TETXUBARRI』。

スペインにある世界ベストレストラン50の5位、ETXUBARRIで働くスーシェフ前田哲郎さんを迎えて行った初めての薪焼きイベント。

 

帰国してからも忙しく中々コンタクトの取れないテツさんに翻弄されながらも、最終日には何とも言えない高揚感と充実感、そしてスタッフとお客様との一体感は言葉に出来ないものがありました。

 

フランスでの修行時代、スペインだけ行かずに帰ってきましたが、スペインへ行くとても大きな目的が出来ました事を嬉しく思う。

 

薪という、いかにも原始的な火入れですが、その魅力はとてつもない物があり、脳に直接響くそんな素晴らしさがあります。

 

炭でもなく、藁でもなく。

 

その独特な香りは人の心を鷲掴みにする。

 

テツさんは普段自然と共に生き、あるがままの姿の食材と対峙し料理を作る。『食材に早く使えとお尻を叩かれているような感覚』と彼は言った。

 

東京で料理をしていると、いつでも食材が届く。しかしそれは流通の為に完熟する前に収穫されたものが多かったりする。

 

今使わないとピークを超えてしまうというような、食材に煽られるような事は極めて少なく、それゆえ、食材の本来一番良い状態というものに対しての感覚は掴みにくくなっているのかもしれない。

 

当たり前だが、食材は皆生きている。

 

その命を頂くということは、その命が一番輝く状態にしてあげることが料理人としての使命なのではないかと思う。

 

人の都合ではなく、食材の都合で料理を作る。

 

そんな素晴らしい環境で仕事をしているテツさんに憧れを持ちながらも、東京でしか出来ない、自分にしか出来ない料理とは、という答えのない問いに挑み続けなければなと、改めて気を引き締める機会となった。

 

ただ、そんな難しい事は抜きにして、ありのままの姿で料理に悩み、楽しむテツさんは、料理人として、人として、最高に魅力的だ。

 

薪の香りを味方につけて、自分の料理を更に高みへ。

 

そしてまたいつかテツさんと働けるその日まで。

 

テツさん、最高に楽しかったです。

 

またサウナ行きましょう。

 

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