自己紹介10。築地での経験とイタリア料理。
逃げる様にEditionをやめてしまったそんな僕にお店を紹介してくれた先輩がいた。
「新しくできるお店に先輩がシェフで入るから働いてみたら?」
他に縋るものもなく、直ぐに話を聞きに行った。フランス料理のお店で、新規オープン。
拾ってもらう様な形で入る事を決めた。
店ができるまで2ヶ月期間があり、築地での仕事を勧められ、魚の勉強にもなるなと働きに行った。
朝の3時に起き、4時から働く。皆が寝静まっている中築地は多くの方が働いている。皆終電で出勤しているみたいだ。僕は4時からひたすら魚の鱗をとったり、中骨を抜いたら、たまに魚をおろさせてもらった。バカでかい冷凍室に商品を取りに行ったら、セリを見せてもらったり、普段決して見れない築地をたくさん見る事が出来た。
11時過ぎまで働き、12時からは銀座の知り合いのお店で研修をした。少しでも料理に触れていないとドンドン遅れをとっている気がして不安で仕方がなかった。
夕方17時まで働いた後は家に帰り、20時過ぎには寝ていた。昼と夜が逆転した生活は、少し辛かったが、築地での仕事は刺激的で楽しかった。そのうち隣の店の兄ちゃんに声をかけてもらえる様になり、野球の話で盛り上がったりもした。
オープンが近づき、契約の話の為にオーナーの元を訪ねると、衝撃的な言葉で迎えられた。
「君はフレンチをやっていたそうだが、イタリアンで良いのかい?」
あまりの衝撃に言葉が出なかった事を覚えている。
イタリアン。何故そんな言葉が出てきたのか。
シェフは雇われなのは分かっていた。しかもフレンチ出身でフレンチをやると豪語していた。
会社自体はイタリアの輸入雑貨の会社で、レストランもイタリア料理。しかしそのシェフはフレンチ色に染めるつもりで、フレンチだと僕に話していた。
他に行く当てもなく途方に暮れたが、その社長がとても良い方で、これも何かのご縁だと働く事を決めた。
こうしてイタリア料理を学ぶ事になったのだが、ここから様々な事が起こる事を僕はまだ知らなかった。
良い事も、悪い事も沢山あったが、本当にこのお店で働いて良かったと思える2年半が始まる。
新世代の料理人に求められる能力とは?
世界中に様々なレストランがあり、今後も際限なく増えていくであろう今日この頃。10年前の様に、自分の店を出せば1つのゴールの様な時代は終わった。
それでもやはり、料理の力は凄いと思うし、シェフをしているおかげで普段会えない様な様々な方とお会いする事が出来る。
テクノロジーの進化によって人々の仕事の仕方は多様に変化し、それぞれのライフスタイルに合った働き方を選べる様になってきている。場所にとらわれず、時間にとらわれず、人にとらわれず。
レストランという仕事は労働集約型産業であり、必然的に拘束時間は長くなり、食材という目に見えるコストをかけて仕事をする。
レストランで働いているとそれはごく当たり前の事だが、他の仕事からするとそれは少し違う。所謂『原価』というものが殆どない仕事もある。むしろそうゆう仕事の方が多いかもしれない。色んな方と出会い、話をする度にレストランという職種の特殊性と現実に気付く。
だからと言ってレストランを批判する訳ではないし、自分自身レストランが大好きだし、この仕事に自信も誇りも持っている。ただ、それだけでは生きてはいけない。
自分が今後どの様な人生を過ごしたいのか。
自分の現状と持っている武器、そして今後世の中がどう動くのか。
レストランの需要はどう変わっていくのか。
テクノロジーの進化と共に料理人も進化する必要があると僕は思う。
自分にとって『料理』とは何なのか。
自分の幸せの為の手段なのか、お金を稼ぐ為の手段なのか、誰かの為のものなのか。
僕にとって料理とは自己表現であり、コミュニケーションツールであり、もちろんお金を稼ぐ為の手段だ。この『稼ぐ』というところはとても大切で、ここを明確に意識出来るかどうかが分かれ道になると思う。
日本人は得てして『稼ぐ』事が苦手だ。僕も決して得意ではないし、人に頼まれるとすぐに安くしてしまう。
でも最近思う事は、自分が1日18時間も10年以上人一倍考え働き、身に付けてきた技術や知識はそんなに簡単に安売り出来るものではない。
何が言いたいかというと、お金持ちになりたいという事ではなく、自分の培ってきたモノに対して客観的にフォーカスし、それに対して相応の対価としてお金を稼ぐ意識が大切だという事です。
求められる事を求められる場所で出来るかどうか。
料理人、シェフという生き方を型にはめず、今の自分の肌で感じる何かと、自分自身の中からしか生まれないモノで、『田村浩二』という生き方をしたい。
自己紹介9。若気の至り。次へのステップ。
フランスから帰国し、また怒涛の日々を過ごしていた。相変わらず怒られてばかりだったが、フランスという目標が出来、熱は更に高まる一方だった。
1年が経ち、何となくお店の流れや料理の事が分かってきた気がした頃から、僕は少し気が大きくなっていたのかもしれない。
先輩よりも動ける自信もあり、技術的にはまだまだだったが、負けているのは年齢のせいだと、同じ歳になる頃には俺の方が絶対に仕事が出来る!っと根拠なき自信の元、周りの人全てを敵にするかの如く、荒れながら仕事をしていたのを覚えている。
そんなある日事件は起きた。
僕の仕事に対して注意をしたシェフに、何を勘違いしたのか反抗をしてしまった。
今考えると、20歳近く歳の離れたグランシェフに、まだ若造だった僕が啖呵を切って反抗した事がどれだけ恐ろしい事か。
ただ当時はそんな事を考える余裕がないくらい追い込まれていたのかなと思う。
寝る間も惜しんで働き、毎日ギリギリだったのかもしれない。
それでも決して許される事ではなかった。
その時に誰かが止めるわけでも無く、シェフと言い合っていたのは、それだけ当時の僕が荒んでいて手がつけられなかったからかもしれない。全ては自分が蒔いた種だった。
その後勢いのまま辞める事をシェフに伝え、1ヶ月の引き継ぎの後店を出た。
初めて自分で選び働いたお店。後にも先にも下村シェフのお店だけだった。
この後僕は働く全てのお店を人のご縁で頂きます。
次の新たなステップへ。
忘れていた説明。
僕は今、Tirpseのシェフとして働くと同時に、自身の作ったプロダクト『L'aromatisane』(アロマティザン)のプロデュースもしています。
『L'aromatisane』とは、aromatiser=香りを付ける、風味を添えるというフランス語と、artisan=職人というフランス語、tisane=ハーブティーというフランス語を組み合わせた造語で、ハーブやフルーツ、スパイスを掛け合わせて作るオリジナルのアロマティーです。
このプロダクトがもう少しで世に出るというタイミングで、6月から個人事業主として、『L'odoriter』(ロドリテル)を立ち上げました。
odor=香りというラテン語と、iter=旅するというラテン語を組み合わせた言葉です。
僕は料理や様々なものに対して『香り』というものに着目してプロダクトを創ります。そのプロダクトが旅をする様に多くの方の元へと届く様願いを込めてこの名前にしました。
その第一歩が『L'aromatisane』です。
今年の秋頃には多くの方のところへと届けられればいいなと。
Tirpseの『Chefs Tasting Menu』ではその世界観を少しだけ感じてもらえる様用意しています。
料理において香りを重視する事は当たり前だと思われますが、その香りについて深く考察し、熟知し、論理的に使う事が出来るは人はあまり多くないと僕は感じています。
【香り、薫る、馨れ】のコンセプトのもとに、多くの方を感化し、そして世界まで届く様なそんプロダクトを数多く創り出せるよう、先ずはTirpseで料理から発信して行きたいと思います。
自己紹介8。フランスの風。
初めて降り立った異国の地の風は日本のそれとは違い、僕の周りに新しい何かを運んで来る。
初めての海外フランス。こんなにも早くこの地に来れるとは思いもしなかった。
Edition2年目の夏。怒涛の日々を過ごすスタッフに下村シェフからの最高のプレゼントだ。
下村シェフの若かりし頃。当時働いていた『オーベルジュドスズキ』の鈴木シェフにフランス旅行へ連れて行ってもらった様に、僕達もフランスへ連れて来てもらった。
一夜漬けのフランス語では大した事は分からなかったが、現地に身を置いているという事実が、僕を少し大人にした様な気がする。
ただ、あまりの嬉しさに色々なものを食べ過ぎ、体調を崩した事は笑い話としてはなかなかに悔しい思い出だ。『ピラミッド』というレストランでの研修も、『ピック』での食事も全てなくなってしまう。
しかしこの経験が後にフランスは再び来る決意となった。
当時色々な星付きレストランへ食べに行ったが、どこもピンと来るところは無く、唯一記憶に残ったのは『アガペ』というレストランだった。その時のシェフ、ベルトラングレボーは今は誰もが知っている『セプティム』というレストランのシェフだ。彼の料理は鮮明に覚えていて、食材の組み合わせや味のバランスが自分に馴染んでいた。
他にもパティスリーを数多く巡り、ビストロで食べたブーダンノワールに感動し、ベタにエッフェル塔へも登ったりした。淡い出逢いは僕の中だけに留めておきたい。
当時10人弱のスタッフの航空代、旅費、食事代、そして個々人へのボーナスと、考えられないほどのお金を掛けてでもスタッフにフランスを経験させたいと思った下村シェフには、本当に頭が上がらない。
今後自身のお店を持った時、同じ様にスタッフをフランスへ連れていけるだけの自分になりたいと思う。
何故トンカツなのか?つかんとの始まり。
昨日vol.3が終わった『つかんと』。
そもそも始まったきっかけは、Tirpseのオーナー大橋直誉がとんかつをこよなく愛しているのが一番の理由だが、昨年Tirpseが3周年を迎え、4年目を迎えるにあたりTirpseらしい攻めた試みをしよう!と言うのが『つかんと』の始まりだ。
シェフとしてはどうなのかなと思うが、僕は肉料理がそこまで好きではない(食べるのが)。
これはスタッフはもちろん、仲の良い人は皆知っている。
そんな中での『つかんと』は、正直始めは乗り気では無かった。そもそもトンカツを食べて興奮したことが無かった(大汗)
ただ、多くの人に愛され、カツ丼やカツサンド、味噌カツ、カツカレーと守備範囲の広さは、素直に凄いなと思う。
vol.1はカツ丼の担当だった。皆でディスカッションをして、どの様なスタイルが良いのかを話している時に僕がイタリアンもやっていた事から、リゾットにしようと決まった。
そこからは、一通りカツ丼の事を調べ上げ(基本的に一通りの情報を仕入れてから物事を考える。)カツ丼にはある程度の定義はあるが、どこも同じ様な物を作っている事がわかった。緑がミツバかグリーンピースかくらいの違いだ。
あくまで味わいはカツ丼をベースにしながらも、ビジュアルや構成はガストロノミーで培った技術を使う。
豚、玉ねぎ、卵、出汁、ご飯、ミツバ。
このシンプルな構成に共通する『香り』を探した。
直ぐに浮かんだのはヘーゼルナッツと白トリュフだ。豚との相性は言うまでもなく、卵と出汁にもリンクする。
白トリュフはオイルで、あくまで香りだけだが、鰹節の香りに強烈にリンクし、旨味のベースを跳ね上げる。卵と豚にも繋がるので、口の中での香りの余韻が長く、旨味の余韻も必然的に伸びる。
オペレーション的なこともとても大切で、コースで出すからにはリズム感が大切で、フランス料理店がトンカツをやるという期待感の中で、待ち時間が長いのは致命的。いかに早く提供するかも重要だ。
毎回カツを卵でとじる時間はないし、そんな当たり前な物を食べたいとも思わない。いつでも半熟の滑らかさがあり、誰でも出来て、早い。
エスプーマ一択だった。イメージはトリュフのかき卵がいつでも出せる様な。
味わいはカツ丼のイメージを守るために、カエシや鰹出汁を加え、少量のクリームでコクを出す。
リゾットと卵の間には細く刻んだ昆布の佃煮を入れ、最後まで噛ませる事で、着地の味わいを和のテイストに。トリュフの香りやヘーゼルナッツが洋を感じさせるが、あくまで日本のカツ丼の着地をこの昆布が決めてくれる。
一口カツにはカエシと黒胡椒をかけ、味わいにインパクトを。
玉ねぎの部分はペコロスをピクルスにして、酸味でバランスを。
刻んだミツバの蒼さが全体をしめてくれる。
なかなかゴールの見えない闘いでしたが、vol.1前日に昆布を加える事を思い付き、味わいがガッチリ決まりなんとかTirpseが掲げる『カツ丼』を作る事が出来た。
自分でも本当に美味しいものが出来た気がします!
次回はとんかつの考察を、、、。
自己紹介7。料理人、田村浩二が作られた2年間。
いつどこでチャンスが巡ってくるかは分からない。だから常に自分を整え、備える事が大切で。
『Edition Koji Shimomura』で働き始めて直ぐのタイミングで、そのチャンスは巡って来た。
3個上の先輩が少しミスを続け、調理場を外された。そこで代わりに調理場に呼ばれたのだ。
自分の中で準備は出来ていた。お店がオープンするまでの期間で、下村シェフの料理は一通り把握していたつもりだ(雑誌やインターネットから得られる情報は全てインプットしていた)
あの料理には何が必要で、この料理は何がポイントなのか。言われるよりも先に動き、感じ、『使えるやつ』になる。
大した期間一緒に働いていない僕が、料理の事を把握して次に必要な物を用意する姿は、下村シェフにとっても他のスタッフにとっても予想外の事だったと思う。そのお陰で、僕はサービスの期間をすっ飛ばし調理場でのポジションを自力で掴み取った。
とはいえまだ2年目だった僕は大した事が出来るわけでもなく、賄いも上手く作れなかった。毎日朝から晩まで働きっぱなしで、休憩など夢のまた夢。罵声を浴びせられながらも、反骨精神と野球で培った忍耐力で、なんとか下村シェフに食らいついた。
オープンから2ヶ月が経つとお店は急に忙しくなった。そこからは僕が辞めるまでの2年間全ての日が満席だった。週7回の雑誌の撮影や、夜の営業が終わってからの試作。ただでさえ過酷だった毎日が、さらに輪を掛けて忙しくなる。辞める人も少なくなかった。
泣きながら働き、逃げたくなる時も多々あったが、なんとか続けられたのは、下村シェフの料理が本当に好きだったからだと今は思う。
食材を真っ直ぐ切る。丁寧に皮を剥く。ソースを綺麗に流す。
当たり前の事ほど厳しく強く怒られた。
ソースが皿の淵に少しでも跳ねれば、その料理は一から盛り直し。お皿に指紋がついているなど問題外。毎日忙しくギリギリの中でも、一切の妥協なく、情熱的な仕事をしていた下村シェフの姿は今でも鮮やかに蘇る。
時代は変わったが、料理にかける情熱はいつの時代も変わる事はないと思う。
『世界に通用する技術を身につけろ』
当時から常々言われた大切な言葉。言葉の壁は大した壁じゃない。技術があれば何処ででもコミニュケーションはとれる。
僕が初めて体感した世界は、料理人三年目にスタッフみんなで行った旅行先、フランスでした。
初めて触れた世界は僕の価値観を大きく変えました。