L'odoriter 料理人の新しいプロダクト。田村浩二の挑戦。

シェフとして、人として。今感じていることを少しずつ綴っていければと思っています。

香りのプロダクト。

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『L'aromatisane』それは僕が創り出した全く新しいアロマティー。

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ハーブ、フルーツ、スパイスをかけ合わせて作るノンアルコールドリンクです。4年前からひっそりと作り始めたこのプロダクトを、やっとカタチにすることが出来ました。

 

『L'aromatisane』とは?

aromatiser(アロマティゼ)という風味をつけるというフランス語と、artisane(アルチザン)という職人の意味のフランス語、そしてtisane(ティザ―ヌ)というハーブティーの意味のフランス語を掛け合わせた造語です。僕の初めての香りのプロダクトなのですが、出来上がるまでには多くのきっかけがありました。

 

28歳の頃、僕はL'asというレストランで働いていました。当時の僕はお酒を飲むことが出来ず、ワインにもほとんど興味がありませんでした。そんな僕を見かねた兼子シェフは「nez de vin」という、ワインの香りを勉強するキットを渡し、「ワインの知識はないとしても香りくらいは分かるようになった方がいい」と助言してくれました。

 

それからは2か月近く毎日気持ち悪くなるほど香りを嗅ぎまくり、54種類ある香りの殆どを嗅ぎ分けれるようになりました。

 

この時に、自分の嗅覚が進化したのを明確に感じたのです。

 

と同時に、お店でグレープフルーツをたくさん使う機会があり、その黄色い皮を乾燥させ、グレープフルーツティーを賄で作っていました。たまたま余ってたローズマリーやバラの花を掛け合わせながら様々な香りの組み合わせを試していたのです。

 

そして、ハーブティーを美味しいと思ったことがなかった僕は、作り方を改めて考え直し、『調理』しました。食材の香りを最大限に引き出すにはどうすればいいのか?自分の技術と知識を総動員して、お湯の温度から抽出方法、時間。何度で飲むのが一番おいしいのか?家での実験は毎晩深夜まで続きました。

 

フランスに渡ってからも、香水の街グラースへ足を運んだり、似たような商品がないか探し回った。料理の修行と同時に香りの勉強とリサーチもしていたのです。

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その甲斐もあって、帰国した時には料理よりも自信のあるプロダクトへと進化を遂げました。

 

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まだ始まったばかりですが、少しでも多くの方へ飲んで頂けるよう更に磨きをかけていきたいと思います。

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http://aromatisane.com/shop/sp/

 

 

自己紹介28。ミラズールで出会った日本人。

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働き始めたころ、日本人は僕しかいなかった。むしろその環境の方が良かったのだけれど。

 

僕がミラズールでは出会った日本人は3人。

同い年の石崎優磨(9STORIESシェフ)と河本英樹(ホテルグランヴィア京都)、そして一番長く働いたテラさんこと寺田篤史(リーガロイヤルホテル)さんだ。

 

優磨は、パリのL'auberge de 15で働いていたが、バカンスを使って少しの間働きに来ていた。初めてフランスで一緒に働いた日本人で同い年。ミラズールの後もパリで会ったり、帰国してからも何度か連絡を取り合っている。

 

優磨が来た頃は僕もまだ慣れておらず、お互いにいっぱいいっぱいの中働いていた。二人とも後から来た日本人という扱いで、雑用ばかりをやらされ他のスタッフと喧嘩をした事が懐かしい(喧嘩をしたのは勿論僕です)

 

もう1人の同い年河本さんは一緒には働いていないが、他のスタッフが彼の事をとても慕っていたので、仕事が出来る人だったんだろう。

彼も帰国して、僕がシェフになってから遊びに来てくれた。

 

最期の一人、テラさんは一番長く共に働いた戦友です。歳は僕より上でしたが、謙虚で負けず嫌いなテラさんは、気を吐きながら働いていた。テラさんは英語があまり話せなかったが、気合で乗り切るテラさんはとても楽しそうだった。

 

僕も含めて途中から入ってきたスタッフは、雑用を回されることがとても多い。言葉が出来ないとなおさらだ。年齢も経験も分からないスタッフに中々仕事は回ってこない。如何にコミュニケーションがとれるかが大切だ。えてして『はい』と言ってしまいがちな日本人は、雑用や掃除をなんでも『はい』と引き受けてしまう。そうなると、やる必要もない掃除までやるはめになることもしばしば。圧倒的に仕事が出来る人は別だが、基本的にはある程度の語学力は必要だと僕は思う。

 

少なからず勉強していた僕は断ることもそうだが、他の日本人が掃除ばかりさせられそうなのをみると、文句を言って喧嘩をしていた。皆日本から10数時間かけて掃除をしに来ているわけではないのだから。

 

 

言葉でも技術でも、何かしら自信をもって戦える武器を持たなければ、海外では生き残っていけないだろう。ただ両方あれば、どこでも仕事はあるし、チャンスはいくらでもやってくる。

 

シーズンのピークが終わる頃、チャンスは僕に回ってきた。

 

温前菜の部門シェフが逃げてしまい、冷前菜のジョーが移ることに。

そして僕が冷前菜の部門シェフに上がることになった。シーズン頭から働いてるスタッフばかりだったので、ポストは空かないと思っていたのに。

 

何が起こるか分からないから人生は面白い。

 

 

自己紹介27。海外生活から見えてくる日本の価値。

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日々の生活にも慣れ、スタッフとのコミュニケーションも取れるようになってきた。

ミラズールでも僕の愛称は『TAM-SAN』だ。

 

情熱的で圧倒的な存在感のマウロシェフ、

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ヘッドシェフで心優しいリカルド(現island Shanguri-La Hotelシェフ)

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日本人の奥さんを持つジョー

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ルームメイトのハンター(現在single thread**で働いている)

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イタリア人コンビのダヴィデ(現ミラズールスーシェフ、mybro)と

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アントニオ(現シェフでサンペレグリノヤングシェフ、フランス代表)

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年下なのに兄貴的な存在のニコ(ニューヨークでoxalisというポップアップレストランでシェフをしている)

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ドリーマーのペドロ。

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働き始めた時には考えられないほど、楽しく刺激的に働けていた。

 

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8月を終えると、少しずつピークの忙しさは落ち着き全体的に余裕が出てきた。

と同時に夏の期間の研修生たちは各々の国へ帰っていく。そのタイミングで店まで歩いて40分、スーパーまで70分の寮から(基本的にはスーシェフの車で出勤するが、人が多いときは歩かなければならない時も)レストランの地下の部屋へ引越しした。

 

より他のスタッフとの時間も増え、仕事終わりに部屋でお酒を飲む機会も多くなった。

ラテン系のノリには疲れることもあったが、日本人とは違う人生の楽しみ方や生き方に考えさせられることもあった。オンとオフの切り替えはビックリするほど早く、仕事が終わった途端に飲み始める。(笑)掃除が終わってないのに飲み始めた奴らに怒っていた僕は、ヤクザと言われ、怒るモノマネを良くされた。

 

そして、日本との違いもそうだが、日本の事に対する質問にも考えさせられた。

醤油や酢、味噌の作り方や、日本の刃物の事。聞かれることに全く答えられない時もあった。日本人として日本の事を知らな過ぎたのだ。身近で当たり前すぎることゆえ考えなかったのか。もっと興味をもっていいはずの事を知らず、他国の事ばかり勉強していた僕は恥ずかしくてたまらなかった。

 

海外の方たちの日本に対する関心は僕たちが思っている以上に高い。その事に僕たちはもっと気付かないといけないし、もっと日本に目を向けるべきではないかと。

 

ただ、海外へ出ないと分からない事の方が多いので、若いうちに海外で生活する事を僕はお勧めしたい。

 

 

レストランの働き方も日本とは違う。勿論文化の違いがそうさせるのかもしれないが。

週休二日、休憩時間もちゃんとあり、自分の時間をしっかりと確保できる。歩く時間が長いからか考える時間が増え、色々な発想も浮かぶ。どちらが良いとかではなく、日本の働き方が当たり前だと思い込まない頭が必要だ。

 

自分に合った働き方。その選択肢があるかどうかだけでも人生は大きく変わるだろう。

 

ミラズールでは、世界の最前線で戦うシェフの熱量と料理だけではなく、今後の自分の働き方や考え方も学んでいた気がする。

 

日本人が日本で料理をする意義とは何なのか。何をどのように発信していくのか。

 

 

ミラズールでの出会いは、外国のスタッフだけではなかった。日本人との出会いも。

同じ境遇だからこそ分かち合えるものがある。そんな日本人との出会いも書いていきたい。

料理人としてどう生きていくのか?

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10月29日、東京駅近くのパソナTRAVEL HUB MIXで、新会社.sience(ドットサイエンス)の設立記念イベントと新しいプロダクト、香りを食べるアイスクリーム『FRAGLACE』の発表会を行いました。

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初めてのイベントという事で不備も多々あったと思いますが、パソナの皆様のお陰で何とか無事に会を収めることが出来たと思います。

 

台風で雨足が強い中40名近くの方たちにお集まりいただき、日頃お世話になっている生産者の方とその食材を使った料理を楽しんで頂きながら、僕らの会社の活動や今後の展望、そして生産者の声を聞いていただけたのではないかなと。

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そもそも僕たちの会社は何をしていく会社なのか?

 

元ヤフーでマーケティング担当の小澤亮と、研究者でエビデンス担当(プロダクトの価値の見える化)の木村龍典、そして生産者の価値あるプロダクトを調理という技術でクリエイトする僕の3人で立ち上げた、食材のブランディングと、その価値とストーリーを多くの人に伝えていくことで、日本の大切な資源や伝統的な技術を再認識してもらい、100年先まで守っていく。そんな想いの会社です。

 

まだ立ち上げたばかりで、今後様々な可能性のある会社だと思っています。

 

その取り組みの第一弾として、無農薬無肥料で作る食用のバラを使ったアイスクリームを開発しました。まだ食材としての認知度の低いバラですが、その価値は他に類を見ないほどです。香りを自身のテーマに掲げる僕は、このバラとの出会いに運命的なものを感じました。現状添えるという選択肢が多いですが、そうではなく、きちんと食材の事を理解し、そのポテンシャルを100%引き出す使い方を多くの人に知って頂きたい。バラの美味しさを知ることで、生産者の仕事の価値を伝えたい。

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こうゆうシェフとしてのレストラン以外の活動をすると、『シェフなのに』というネガティブな声が少なからず聞こえてきます。一つの道を究め続けるのが美学の日本では、それはある種当たり前なのでしょう。僕自身もその考え方は嫌いではありません。しかし、時代が変わり、働き方が変わり、人の考え方も変わる中で、今までと同じ働き方をすることに少し息苦しさも感じています。

 

僕はとても無駄が嫌いです。料理にしても必要のない飾りの為だけのアイテムを乗せたくありません。自分の能力に関しても無駄にしたくない。レストランでの料理は大好きですが、それは僕の能力の一部でしかありません。美味しいカレーを作ることも出来るし、ハーブやフルーツでアロマティーを作ることもできます。人に何かを伝える時に、言葉でも、文章でも明確に表せます。全部が自分の能力で個性です。

 

シェフをしているからレストランで働くだけなんて、自分の能力を生かす機会損失だと感じます。時代が進み、コミュニケーションの仕方と速度が変わったからこそ、このように感じるようになったのです。

 

そして、デジタルネイティブと呼ばれる次の世代ならなおさらだと。そんな彼らの働き方の方向性を広げていくのも、僕たち若手シェフの役割だと思っています。カンテサンスの岸田シェフがレストランの仕組みを変えた様に、傅の長谷川シェフが日本料理の可能性を広げた様に。30代前半の今だからこそ、新しい取り組みを、賛否両論ありながらも突き進むべきだと。

 

まだ何も結果は出せていません。

 

でも、だからこそ、今の自分を信じ、未来の自分に期待を込めて、こうして少しでも世の中に投げかけていく。自分から発信することで、多くの人に届き、巻き込めるように。

 

年齢や経験は関係ない、やるかやらないか。出来るかどうか悩むくらいなら、先ず一歩踏み出そう。

 

 

 

 

 

 

自己紹介26。技術は言葉の壁を超える。

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初めて作った賄は何だっただろうか?

 

レストランで働き始めてから、幾度となく賄を作ってきた。最初の頃はまずいと言われ、目の前で捨てられ、コンビニ弁当を食べられた日もあった。

 

実家にいる時は料理なんて作ったことがなかった。味噌汁さえも作った記憶はない。

それでもなぜか僕は料理人になった。母の料理のお陰だ。

 

母の料理のお陰で、美味しいものが分かる舌は育っている。

 

 

 

ミラズールで働き始めたものの、僕はいまいち馴染めずにいた。言葉の壁もある。

そんな矢先、賄を作る機会が回ってきた。30名を超えるスタッフの賄を作る。

毎日激しく忙しい調理場で、賄用に火口もなかなか使えない。自分の仕込みもある中でバタバタと働いていたが、半ば強引に場所を取り仕込みを始めた。

 

賄は皆、好きなものを作るらしいが、自国の料理を作ることが多いみたいだ。

勿論僕は和食を作った。(日本人が僕しかいなかったので、作れと皆から言われた)

死ぬほど忙しい中、僕が最初に賄いに作ったのはカツ丼だ。30人分のカツを上げるだけでも一苦労なのに、なぜカツ丼を選んだのか。(のちにシェフとしてカツ丼を作るとは思ってもいない)

 

それでも何とかやり切り、皆と一緒に賄のテラスへ。

 

料理人として初めて作った賄よりも緊張した。それでも当時よりは間違いなく旨いものが作れている。さあ食ってくれ!そんな気分だった。

 

いつものように一人で食べていると(賄を食べる時間も勿体ないくらい時間に追われていたのと、会話が続かない引け目で)何人かのスタッフが近づいてきた。

 

『これはなんだ!どうやって作るんだ!!うまいじゃないか!!!』と興奮気味に話しかけてきた。僕を顎で使っている18歳のマリアーノも寄ってきて、急にタムサンと敬語になった。不慣れな英語だが、精一杯カツ丼の作り方を教え、くだらない会話も出来た。それからは賄を作るたびに評価が上がり、仕事の仕方も聞いてくるようになった。

 

賄が僕の技術を証明してくれたのだ。そして、得体のしれない日本人から、技術のある日本人へと周りの目が変わった。仕事に対して意見をしても、ちゃんと聞いてもらえる。新しいメニューの試作を任されたり、気が付けばセクションを任されるほどに。

 

正直入って一週間は、日本に帰りたくなるほどきつかった。それでも何とか立ち直り、セクションを任され、お店に貢献することが出来たと思う。

 

僕の培ってきた技術が世界に通用した瞬間だった。(賄だけでなく、様々な場面で)

 

 

新卒の頃、毎日言われ続けた『世界に通用する技術を身につけろ』の言葉の意味を体感し、当時ガムシャラに働いて身に着けた技術と、師匠の下村シェフに改めて感謝した。

 

自信が付くと自己主張も出来るようになり、働きやすい環境作りが出来始める。

 

本当の戦いはここからかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本人なら。

バーミキュラライスポットを知っているだろうか?

 

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それは、愛知ドビー株式会社の作る『世界一、素材本来の味を引き出す鍋』だ。

 

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元々は船舶やクレーン車に使われる精密部品の製造をしている鋳造メーカーだったがが、鋳物の特性が調理に向いているというところから、鍋作りを始められたそう。

 

始めてバーミキュラを知ったのは、宮崎の大先輩の家で朝食をご馳走になった時で、ご飯がこんなにも美味しくなるのかと驚いた。

 

その後も、凄い凄いと話には聞いていたが、実際に触れる機会は殆どなく、『少し高い炊飯器』という程度の浅はかな認識だったのを恥ずかしく思う。

 

11月6日発売のbuonoの企画でバーミキュラのレシピを作る事になった。そこで初めてバーミキュラと向き合い、その機能性の高さは勿論だが、誰でも使いやすく設計されているそのシステムに感動した。

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先ずは、鍋自体に施されているTRIPLE THERMO TECHNOLOGY。

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1つ目は、鍋底をリブ状ににすることで食材の接地面積を最小限にし、過剰な熱の伝達を抑えます。

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2つ目は、3層にコーティングされたホーローが強い遠赤外線を発生し、食材の組織を破壊することなく内側から加熱します。

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3つ目は、テーパーエアタイト構造。高い密閉性で蒸気をしっかりと閉じ込め、鍋の中で対流を作り食材に外側からも熱を入れるので、美味しく仕上がる。

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この3つの加熱により、食材本来の旨味を引き出します。

 

そしてこの鍋の能力を最大限に引き出すのがRice PotのWRAP UP HEAT TECHNOLOGYだ。

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かまどの炎のように、鍋を包み込むように加熱する。そしてヒートセンサーが一度単位の正確な温度管理をしてくれます。

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直火では調節のしにくい、弱火や極弱火までしっかりとコントロール。ご飯を美味しく炊き上げるのは勿論の事、長時間の温度管理や低温調理、パンの発酵まで幅広くこなします。

 

僕のようなプロの料理人から一般家庭の主婦まで、どんな人にも使いやすく美味しく調理できる最高のアイテムだ。

 

一家に一台の必需品になる事間違いないだろう。

 

家庭の小さなキッチンで何時間も場所を取られるのは死活問題だが、バーミキュラはコンセントがあればどこでも使えるので、場所を選ばない。これはかなり重要なポイントだと思う。レストランでも火口はいつも場所がない。なので、場所を選ばないというのはとても大切だ。

 

ここまで色々と書こうと思ったのも、本当にバーミキュラが素晴らしいからだ!

 

是非多くの方にこの感動体験をしてもらいたい。

 

昨日食事に来てくださった土方社長、副社長、そして取材からお世話になった折橋さんと。

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http://buono-web.jp/magazine/detail/5621/

 

 

自己紹介25。孤独な戦い、言葉の壁。

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初めて海外で働くレストランが世界12位。(現4位)

 

各セクションにつく担当者の仕事のレベルの高さに驚いた。外国の料理人は日本人と比べると仕事が雑な人が多い印象だったが、ここのスタッフは日本人より細かく清潔な仕事をしていた。

 

レストランミラズール。

 

着いたその日に案内された調理場は、今まで感じたことのない熱気と各国の言葉が激しく飛び交う、まさに戦場だった。

 

シェフが発するオーダーに、全員が怒号の様な返事をする。一度料理がかかると、盛り付けをするシェフの前に次々と淀みなく食材が渡され、一皿へと仕上がっていく。

 

目の前で見ているだけで圧倒されてしまう様な、そんな見えない力がこの調理場には渦巻いていた。

 

初日だからと言う理由で、軽い仕込みと見学で終わった。

 

明日からこの調理場で戦う。興奮と不安がぶつかり合うなんとも言えない気持ち。

 

寮へ案内すると言われ、車へ向かう。店から車で15分。山を登った先にスタッフの住む小さな家があった。運転してくれたスタッフは、仕事がまだ残っていると店へ引き返した。残された僕は訳も分からぬままシャワーを浴びて、長い1日を終えた。

 

 

 

8月のマントンは、多くの観光客で賑わっている。シーズン真っ只中のミラズールは、昼夜合わせて140名近いゲストが毎日の様に訪れていた。そんな中、途中から入った僕は前菜のポジションへ入れられ、18歳の若者と仕事をしていた。

 

先に働いていた彼マリアーノは、後から来た僕に仕事を奪われまいと何かにつけて喧嘩腰で話をする。後から分かる話なのだが、どうやら彼は僕の事を22歳だと思っていたそうた。(29をヴァンヌフと発音するのだが、22のヴァンドゥーと聞き間違えたらしい。僕の見た目が外国人と比べ幼いのもそれを助長していた。)

 

調理場にはフランス人がいなかった。イタリア人、スペイン人、アルゼンチン人、アメリカ人、そして日本人は僕1人。

 

1年かけて学んだフランス語は日の目を見ず、中学時代の英語を頭の片隅から引っ張り出し、必死にコミニケーションをとっていた。会話する人の出身地によっては訛りが激しく、英語を話せないスタッフもいた。20人以上いるスタッフの名前を覚えるのも一苦労。何気ない会話をする余裕もない程の忙しさ。賄いも1人でかき込む様に食べ、直ぐに準備に取り掛からないと間に合わなかった。

 

オーダーに耳が慣れず、18歳のマリアーノにはナメられ、今までの自分の仕事が否定されている様なそんな毎日だった。

 

それでも1週間が経ちシェフと話をすると、研修生ではなく社員として雇ってもらえる事になった。自分の中で結果は出せていなかったが、取り敢えずは自分の居場所を確保する事が出来たのだ。

 

次の週から賄いを作る様にと言われた。1週間皆で交代で作っていると。

 

良くある話だが、この賄いをキッカケに僕の仕事は好転する。言葉よりも何よりも、美味しいものを作る技術が僕の事を救ってくれた。

 

『世界に通用する技術を身に付けろ』

 

いつか師匠に言われた言葉の意味を、僕はこの時やっと理解した。